okinawa

美ら島・沖縄


 名古屋発9:40のJAL3253便で那覇に向かう。機材はB737-400。たぶん、JALでは一番小さな機材。機械でチェックインをしようとすると拒否されたのでカウンターへ。すると割り当てられた席が非常口で、非常時のお手伝いをお願いされた。搭乗してみると非常口のある2列は足元が広い。何もなければラッキーな席かも。ところで、わたしはほとんどJALを使ったことがないんだが、この機材のシートは少々安っぽい。ANA所属の同型機の方が良いような気がする。台風の影響により強風が吹き荒れ、着陸時に機体が激しく揺れた。

 那覇着。蒸し暑い。レンタカー屋が芋を洗うような混雑で手続きに手間取り、慌てて糸数壕(アブチラガマ)へと直行する。余裕があるハズだったのに少々遅れてしまった。
 あらかじめお願いをしてあった吉嶺翁の案内で入壕する。70歳位か。壕の中は真っ暗。懐中電灯が必要である。ここは沖縄戦の野戦病院跡である。詳しく言うと、南風原(はえばる)陸軍病院の糸数分院ってことになるんだが、病院とは名ばかり。麻酔無しの手術、と言っても切断するだけの手術だが、医療器具も薬もなくけが人や病人はただ寝かされているだけ。ほとんど光の入らない壕の中は、ろうそくかランプのような照明しかない。吉嶺翁は淡々と説明をする。吉嶺翁はここにいた訳ではない。実際にいた人は二度と近寄らないらしい。彼が案内人ボランティアをするために初めてこの壕に入った時、『こんな安全なところがあったのか!』と思ったそうだ。それは、壕の中に水と食料とトイレが揃っているからだとの由。水くみやトイレで壕の外に出たところでやられてしまう人が後を絶たなかったと言うことで、そういう感想を持ったらしい。私たちから見れば、暗くてジメジメして不衛生で不快この上もないところでもである。ひめゆり部隊の女性たちも10数人配属されていたらしい。ただ、壕内は外界よりもかなり涼しかった。

 時間が前後するが、糸数に向かう車中で景観が違うことに気づいた。民家のほとんどが鉄筋コンクリートで、白い家並みが広がっていることだ。瓦屋根の民家がほとんど無く少々日本離れした景色だった。

 摩文仁の丘で遅い昼食。沖縄そばを食す。豚肉の煮付けと揚げたかまぼこを乗せこれをカツオを利かせたダシか豚骨でいただく。麺は堅くてぼそぼそした感じのうどんと言った風。いやー、ヴォリューム満点だわ。そーきそばとの違いは豚肉の煮付けが豚のスペアリブ?が乗ってる点。
 沖縄平和祈念資料館。これは明治以降の沖縄の歴史と沖縄戦、そして基地の島沖縄の今を綴ったもの。膨大な資料に圧倒される。沖縄戦の写真に涙が出そうになる。平和の礎へ。沖縄戦最後の激戦地も今は静かな時が流れている。吹き渡る風の音だけが鳴っていた。外国人の記載もある。台風の影響で風が強い。ここで時間切れ。あとは南端の岬付近を巡って那覇へと戻った。

 夕食は、友人に教えてもらった「ゆうなんぎい」に行こうと思ったらお休みだったので、同じ通りの「寿々」へ。落ち着いた店で割とおいしかった。沖縄料理は不味いって話を聞いていたけど、そんなことないね。泡盛(古酒)がおいしい。そう、国際通りまで歩いていこうとしたが、途中で息切れしてモノレールに乗ってしまった。(1駅だけど)それでも30分かかった。国際通りは人であふれかえっていたが、ほとんど観光客のようだった。
 ホテルはロワジールホテルオキナワ。港に近いシティホテル。ここに2泊した。お洒落なホテルで部屋も広くてまあまあ。ただ、国際通りまで遠いのが難点か?

 

 2日目は10時にスタート。台風のために終日強風が吹き荒れる。前日、時間切れで行かれなかったひめゆり平和祈念館へ。ちょっと効率の悪い回り方になってしまった。今年リニューアルされた祈念館は、ひめゆり部隊となった沖縄女子師範と県立第一高女の簡単な歴史や戦時中の生活を示す品々、当時の手紙。沖縄戦の概要やひめゆり部隊の変遷。かたりべの人達のかたり(ライブ)やVTR。1フィート運動で買い取った米軍撮影の沖縄戦のフィルム。さらに近代〜現代の沖縄の歴史を紹介している。かたりべのかたり(ライブ)だけの展示だった以前の祈念館とは大きく装いを変えたようだ。沖縄戦については、この旅日記の趣旨から逸脱するので多くを語らないが、軍人よりも非戦闘員に多くの死傷者を出したところにこの戦闘の実相が見え隠れしているように思う。

 続いて、おきなわワールド。玉泉洞という鍾乳洞、その上に施設がある。鍾乳洞はなかなかの規模だが、洞内にあんなふうに人口の構造物を作ってしまって良いのか?と思う。おきなわワールドは、熱帯植物園、沖縄の古い民家を移設してそれぞれで伝統技術の体験学習などがある。見なかったがハブ館もあった。琉球の民俗芸能も見られるようだったが時間の都合でパスした。しかし、三線が欲しくなった。
 お次は首里城。古い門と戦後の復元。沖縄戦で破壊されてしまったことは返す返すも残念。展示品を見ながら、やはり沖縄は本土とは別の文化が根付いていたんだなあと感じた。まぁ、近世までは別の国だったんだから当たり前といえば当たり前なんだけどね。
 その後、知念村までドライブ。丘陵と谷が複雑に入り組んでいる。観光地でない沖縄は南国とは思えないほど寂しい風景。海岸からは沖合にリーフが見える。沖縄ではたいていの海岸にはリーフがあるんだそうだ。(吉嶺翁談)内陸はさとうきび畑ばかりで水田がない。
 夜は再び国際通りへ。この日はタクシーで行った。前日休みだった「ゆうなんぎい」は店の外まで入店待ちのお客さんが並んでいて断念した。困ってぶらぶら。結局、客引きに捕まって「まんざら亭」ってところへ。ま、まんざらでもないってところかな。

 

 3日目。この日も10時にスタート。一路、美ら海水族館へ。沖縄自動車道を全線利用した。途中の伊芸SAで休憩。展望台で海中道路方面を見る。今日も海は荒れている。許田で一般道に合流し名護市を通って水族館まで約2時間。
 水族館は海洋博公園にある施設のひとつ。熱帯ドリームセンターとか海洋文化館などがある。マナティ館やうみがめ館はただで入ることができる。ここには以前にも水族館があったようで今あるものはリニューアルってことなんかな。しかし、人多過ぎで疲れた。確かにジンベイザメやマンタはすごいけど見せ方は名古屋港水族館のいいような。大阪の海遊館も結構良いし。内容も熱帯のものだけなんで種類が限定されちゃいますからね。そうは言ってもざっと見るだけで2時間。

 その後、今帰仁城(なきじんぐすく)跡へ。14世紀から16世紀にかけて使われたグスクの跡。北山王統が築き、中山王統に占領された後も中山が統治するために使用。今は遺構しかない。1980年代からの発掘調査でここまで復元した。瀬底島に寄り道して帰る。南部に比べ、古い琉球民家が多く残っている。下道を万座ビーチへ。

 この日の宿泊は万座ビーチホテル。小さな半島部突端にホテルがあるのにのカーナビ様は国道上で案内を終了。『え”〜』と思っていると、半島部のほとんどがホテルの持ち物の様子。もちろん、プライベートビーチ。マリンレジャーはなんでもある。テニスコートもあった。ホテル中央部は2Fより上が最上階まで吹き抜け。1Fでのジャズの演奏が7Fの廊下まで響き渡っている。1Fはそのままプールにつながっていて、さらにビーチにも降りられる。従って、1Fはもちろん、各階の廊下は基本的に外といっしょ。
 チェックインしようとフロントで手続き。するとフロントのおねいさんが、「ツインルームでご予約を承っておりましたが、ホテルの都合で」(まさかシングル2部屋?リゾートではあり得ねーよな)「スイートをご用意いたしました。」(へぇ、しばし絶句)「よろしいでしょうか?」(悪いワケないだろ。)などと仰って、7F海側の部屋に通された。部屋は、広いエントランスを入ると、2つに仕切ってあり、リヴィングとベッドルームにわかれている。デスクはベッドの裏側でリヴィングとも別空間。バスルームとは別にシャワールーム。洗面所とトイレはもちろん別。陶製のティーセット、コーヒーセット。食器棚、冷蔵庫を隠す棚。VTRデッキの入ったTV台の扉のデザインが統一されている。リヴィングTVは42インチの液晶。ベッドルームにもTV。ソファーセットのほかにお茶するためのテーブルあり、ベランダには籐製のソファー置かれている。角部屋で西から北に向かって海が広がっているのが見える。何より照明が明るいのがいい!残念なのはPHSが圏外なことくらい。

 

 朝食前にホテルの外を散策。まさにプライベートビーチ。なかなか良い雰囲気。ANAの系列なのか?国道から入ってくるところにあるゲートで、宿泊者以外は利用料金を徴収される模様。朝食のバイキングは料理の数が豊富でデザートもとりどり。充実したものだった。
 チェックアウトすれば、あとは帰るだけ。嘉手納基地を見るために遠回りをしてレンタカーの返却時間を越えてしまったが、別に何もなし。返却時のクルマのチェックもなし。レンタカー屋の中はわれわれが来たときと同じようにごった返していた。
 那覇空港は奇麗で立派。(ところが、国際線はみすぼらしいことを帰ってから知った。)4Fで離発着を見ていたが、まさに引っ切りなしに離発着。このくらいなければ甲斐がないってもんだよね。小型のターボプロップ機が国際線のエプロンに。何故?。私たちを乗せたJAL3256便(機材は往路と同様)は離陸待ちで15分延発するも、名古屋到着には10分の延着になっていた。空港から名駅まで40分以上かかった。